2001年宇宙の旅は1968年に公開されたスタンリー・キューブリックによるSF映画。脚本はキューブリックとアーサーCクラーク。 あらすじは、月で発見された謎の物体モノリスが木星へと強力な磁力を発していることをきっかけに5人の宇宙飛行士とHAL(AI)が木星探査へとでかける。
全体の物語をどう捉えたらよいか。物語を主に3つに分けるとする。
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The Dawn of man
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木星への移動中でのHALの暴走
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木星に到着してから最後のシーンまで
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ではタイトル通り猿から人類へとどのように進化していったのかが描かれる。あるとき猿は動物の死骸の骨が武器として使えることを発見し、それで動物を狩るようになる。また、武器を得たことで縄張り争いから同種を殺すことにもなる
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では、間違いを犯すことがないと言っていたHALが間違いを犯し、それを認めないことから宇宙飛行士はHALの動作を停止しようとする。それに気づいたHALは宇宙飛行士たちを宇宙船から追い出そうとする。(HALの目的は、無事に木星にたどり着き探査することといえる)
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では、木星についた宇宙飛行士が巨大なモノリスを目にし、そして老化し、巨大な赤子になって地球の元へ戻って来る
1, 2は時代が異なるが同じことを描いているようにも思える。それは、人間がテクノロジーを発達、進歩させるということは、人間自身を脅かしかねないということ。 3.では、なぜ人間はそれでもテクノロジーを発達させるのかということを描いていると思う。それは単に未知のものへの探究心であり、それはひとつ満たされると、新たな探究心がわき、満たされないものである。その根本に関して、人間は猿なのである。猿がモノリスに興味を示したように、未知のものがあると触ったり、それを解明したくなるのである。宇宙飛行士は木星に行くと、赤子になるが、それは、一生好奇心は満たされることはなく、我々は猿であり、赤ちゃんなんだよと言っているように思えた
キューブリックの作品をいくつか観た感想としては、ユーモアとセンスを用いて人間・社会のどうしようもなさを提示するんだけど、そこに毎回キューブリック自身も批判の対象として内包されてる感じが無敵。上から目線というより、内側から面白がりつつ批判している感じ。上から物を言っても仕方ない。ユーモアだ。
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主観と客観とカメラと音
この作品はキューブリックにしては、セリフに味気がなく、割と映像美をもってして画を持たせている。(当時からすればこれはかなりスペタクルだったはず) しかし、このような作品を現代においてサブスクで小さい端末で見るのは正直辛い。 それに加えて、HALが登場すると、人がAIに監視されているという状態を描くために俯瞰した構図が多くなり、カットが減る。つまり、画が客観の状態が多くなる。カットが減り、客観の状態が続くと、とてもつまらなくなるが、この映画ではそれを音でクリアしているように思えた。というのは、画は客観であるのだが、音は常に宇宙飛行士の息遣いがこれでもかと聞こえるのである。画面は客観、音は主観という状態になることで、観客を飽きさせないようになっている。